短杖とは

各流派に棒術はある

 日本の古武道には各流・各派共に棒術(6尺棒、4尺2寸~5寸杖、3尺短杖)と言われるものがあります。内田流短杖術は約130年前安政の頃、平野三郎能得の兄弟弟子である内田良五郎が考案したものです。

 別名ステッキ術とも言います。

内田流短杖について

 明治時代に入り洋風化が進み明治9年には廃刀令が公布されました。旧武士階級の多くの者は護身用にステッキを携行する様になりました。黒田藩の足軽階級であった内田良五郎は神道夢想流杖術をはじめ多くの流儀に精通しておりましたが、このような時代背景から主に神道夢想流杖術と一角流十手術を基にステッキを使用する武術を考案しました。これを内田流短杖術と称し、単にステッキ術とも言いました。

 棒の長さは約3尺位、直径8分位とされていますが、体長に応じて長くも短くも、自分の杖・ステッキとして使用しやすい長さにしてよいとされました。

塩川伝無外流と内田流短杖

 はじめ形は12本(福岡伝)からなっていたこの術ですが、大阪府警の武道師範故中嶋浅吉先生が4本目繰付と5本目の後杖を12本目の脛砕きに取り入れ10本として指導し、無外流塩川寶祥第15代宗家が継承したため、塩川伝無外流では10本で併伝武術としました。塩川宗家は、「無外流居合の理解を深めるために修行者は取り組むべき」だとしました。

内田良五郎 紹介

(うちだ りょうごろう、1837年5月13日(天保8年4月9日) – 1921年(大正10年)9月22日)は、日本の武術家である。玄洋社社員。玄洋社(げんようしゃ、1881年 – 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。アジア各国の独立を支援し、孫文の辛亥革命も支援した。幹事は頭山満先生。

経歴
 天保8年(1837年)4月9日に筑前国福岡地行五番丁で平岡仁三郎の子として生まれる。剣術は小野派一刀流の幾岡平太郎の門に入り免許を得て中西忠太の皆伝を許された。
 柔術は扱心流を藩の師範石川雄兵衛に、天真正伝神道夢想流杖術、及び一角流捕手は平野吉右衛門に、砲術は津田武右衛門に学び、鎗術と共にその師から免許を受けた。
 晩年に洋杖(ステッキ)術を創案し、内田流短杖術を創始した。

左から出口輪仁三郎、頭山満、内田良五郎の三男内田良平。

 また、神道夢想流杖術の普及に尽力した。主な弟子に中山博道がいる。